ここで言う気づきは 二種類あります。
一つ目は通常の気づき 二つ目は瞑想的な気づき
通常の気づきとは何でしょうか。
誰にでもあるものです。
例えば 「注意して!危ない!」 「も〜 わかってるよ! イライラするなぁ」
「ええ!私 幸せです! 私 幸せじゃない!」
「あそこに何か見えるなぁ」
「ああ 素敵な花 花が大好き!」
「アレルギー持っているから 花は嫌い」
「ええと 良い花か 良くない花かわからないな」
これら全ては 通常の気づきを表します。
誰もが持っているものです。
しかし、ここで重要な点は、気づきを気づきとして認識していないことです。
だから 通常の気づきは、すっかり外側に向いています。
皆さんの気づきは、外界の現象を追いかけます。
「外の現象」とは、形・音・香り・味 -身体的な感覚-思考と感情のこと。
常にこれらの現象を追います。
そこに気づきがあると、認識していない状態です。
例えば、音を聞く時に、ちょっとした例ですが、皆さんが音に耳をかたむける時、聞こえること、経験することは、音に限られます。
音を聞いている気づきを、認識していません。
つまり、音だけ聞いています。
しかし、気づきを認識し、瞑想を学びに、ここへ来ているとしたら、音に耳をかたむける時、音を聞いていることを、知っています。
そこには気づきが存在していると認識します。
そして、この場合、皆さんはある種の自由を得ているのです。
というのは、皆さんの心は、形・音・香り・味・感覚 思考・感情というような、外界の現象に依存していないからです。
但し、これらの対象と共に、気づきを認識できないなら、皆さんの心は常に観察することになります。
観察者が観察して、さまざまな状況や現象を追い求めることになります。
そして自分が観えなくなってしまいます。
中心(センター)がないことを意味します。
中心となる核がないと、例えば、皆さんの心は風に吹かれる旗のようです。
風がこちらに吹けば、旗もこちらにはためき、風があちらに吹けば、旗もあちらにはためき、常にあちこちに動いている状態です。
これでは自由がありません。
何と言いますか、旗は風の力のせいで、いつも揺らいでいます。
旗は、旗自体では、コントロールできません。
「このように留まりたい」と 思っていても、うまくいきません。
風がどこへ向かって吹こうとも、皆さんは、どの方向へでもはためく。
我々の心はそのようなものです。
さまざまな現象に 依存してしまいます。
「あぁ はい」 何かを見て 「それが好き!」 他のものを見たら 「あぁ それは好きじゃない!」 また別のものを見ると 「あぁ 好きかどうかわからない」
そのように、良いものを見たら、素敵だと思って、良くないものを見たら、醜いと思って、どちらでもない場合は 混乱する。
音についても同じこと。
香り・味・感覚・思考・感情 すべて同じです。
気づきを認識したら、例えば音を聞いている時、音が存在すると同時に、気づきも存在します。
気づきは、純粋で、清らか、落ち着いていて、安らぎに満ちたものです
ええと、透明です。 水のように。 この水は、純粋で清らかで穏やかで透明です。
しかし、砂を加えて、かき混ぜたとしたら、どうなりますか。
濁ったものになりますよね 。
では、どのように砂と水を分離できますか。
そのままにしておくのです。
そうすると、砂は自然に底に沈んでいきます。
残るのは綺麗で純粋な水ですね。
皆さんの心は、この水のようなものです。
音を瞑想の対象にするなら、リラックスするだけでいい。
皆さんの気づきは、音に落ち着きます。
そして自然に皆さんの気づきは、穏やかで純粋で綺麗なものになります。
そして皆さんは気づきについて、もっと認識するようになります。
気づきを形の対象に休めることもできます。
気づきを、香り・味・感覚にも 。
このように、これがもたらす効果は、心が落ち着いて、安らぐということです。
特に、この瞑想の特別な成果は、心が柔軟になり、働きが良くなるということです。
心はもはや風に揺れる旗ではなくなるのです。
Two Kinds of Awareness
一つ目は通常の気づき 二つ目は瞑想的な気づき
通常の気づきとは何でしょうか。
誰にでもあるものです。
例えば 「注意して!危ない!」 「も〜 わかってるよ! イライラするなぁ」
「ええ!私 幸せです! 私 幸せじゃない!」
「あそこに何か見えるなぁ」
「ああ 素敵な花 花が大好き!」
「アレルギー持っているから 花は嫌い」
「ええと 良い花か 良くない花かわからないな」
これら全ては 通常の気づきを表します。
誰もが持っているものです。
しかし、ここで重要な点は、気づきを気づきとして認識していないことです。
だから 通常の気づきは、すっかり外側に向いています。
皆さんの気づきは、外界の現象を追いかけます。
「外の現象」とは、形・音・香り・味 -身体的な感覚-思考と感情のこと。
常にこれらの現象を追います。
そこに気づきがあると、認識していない状態です。
例えば、音を聞く時に、ちょっとした例ですが、皆さんが音に耳をかたむける時、聞こえること、経験することは、音に限られます。
音を聞いている気づきを、認識していません。
つまり、音だけ聞いています。
しかし、気づきを認識し、瞑想を学びに、ここへ来ているとしたら、音に耳をかたむける時、音を聞いていることを、知っています。
そこには気づきが存在していると認識します。
そして、この場合、皆さんはある種の自由を得ているのです。
というのは、皆さんの心は、形・音・香り・味・感覚 思考・感情というような、外界の現象に依存していないからです。
但し、これらの対象と共に、気づきを認識できないなら、皆さんの心は常に観察することになります。
観察者が観察して、さまざまな状況や現象を追い求めることになります。
そして自分が観えなくなってしまいます。
中心(センター)がないことを意味します。
中心となる核がないと、例えば、皆さんの心は風に吹かれる旗のようです。
風がこちらに吹けば、旗もこちらにはためき、風があちらに吹けば、旗もあちらにはためき、常にあちこちに動いている状態です。
これでは自由がありません。
何と言いますか、旗は風の力のせいで、いつも揺らいでいます。
旗は、旗自体では、コントロールできません。
「このように留まりたい」と 思っていても、うまくいきません。
風がどこへ向かって吹こうとも、皆さんは、どの方向へでもはためく。
我々の心はそのようなものです。
さまざまな現象に 依存してしまいます。
「あぁ はい」 何かを見て 「それが好き!」 他のものを見たら 「あぁ それは好きじゃない!」 また別のものを見ると 「あぁ 好きかどうかわからない」
そのように、良いものを見たら、素敵だと思って、良くないものを見たら、醜いと思って、どちらでもない場合は 混乱する。
音についても同じこと。
香り・味・感覚・思考・感情 すべて同じです。
気づきを認識したら、例えば音を聞いている時、音が存在すると同時に、気づきも存在します。
気づきは、純粋で、清らか、落ち着いていて、安らぎに満ちたものです
ええと、透明です。 水のように。 この水は、純粋で清らかで穏やかで透明です。
しかし、砂を加えて、かき混ぜたとしたら、どうなりますか。
濁ったものになりますよね 。
では、どのように砂と水を分離できますか。
そのままにしておくのです。
そうすると、砂は自然に底に沈んでいきます。
残るのは綺麗で純粋な水ですね。
皆さんの心は、この水のようなものです。
音を瞑想の対象にするなら、リラックスするだけでいい。
皆さんの気づきは、音に落ち着きます。
そして自然に皆さんの気づきは、穏やかで純粋で綺麗なものになります。
そして皆さんは気づきについて、もっと認識するようになります。
気づきを形の対象に休めることもできます。
気づきを、香り・味・感覚にも 。
このように、これがもたらす効果は、心が落ち着いて、安らぐということです。
特に、この瞑想の特別な成果は、心が柔軟になり、働きが良くなるということです。
心はもはや風に揺れる旗ではなくなるのです。
Two Kinds of Awareness
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